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2012正月コラム 命を紡ぐということ(ある青年の自殺より)
2011 年 12 月 7 日
何の変哲も無い、ある日の昼下がり・・・一人の青年が駅のホームから特急列車に飛び込み、短い人生の幕を自ら閉じました。管轄の警察署でご両親と待ち合わせ、彼の亡骸をお預かりしたのは翌日の朝のことでした。愛する息子を亡くしたご両親は、しかし彼と最後の面会をすることもできず、自宅に安置することも断念し、私共にご遺体を託されました。自分たちが知っている、綺麗なままのわが子の姿で見送りたい・・そんな思いからのご決断でした。

現在国内に80万人ともいわれる心の病に「統合失調症」があります。基礎症状として「認知障害(連合障害)「陰性症状(自閉等)」があり、副次的に「精神病状態(幻覚妄想)」など多様な症状を示し、罹患者個々人によって症状のスペクトラムも多様な病気です。(ウィキペディアより参照) 患者の皆さんは、この心の病から日常的な社会生活を営むことが困難となり、鬱を併発したり、自宅に引きこもりがちになったりするそうです。そして周りの家族をも巻き込み、更に社会からの隔絶を余儀なくされる・・・悪循環の連鎖のなか、苦悶の日々を過ごします。言葉で説明すればいとも簡単に終わってしまうこんなお話ですが、ご本人はもちろんの事、家族にとっても真綿で締め上げられるような地獄の日々の連続です。それはまた、出口の見えないトンネルの中を淡々と進むようなものではないでしょうか? 傍目には普通の人となんら変わらない外見であるだけに、健常者から理解されるのが難しい病気と言えると思います。そして、わが子がこの病気になったときに何よりも気がかりなのは「自分たちがいなくなった後、この子はどうするのだろうか?」ということだそうです。病気の性質や判断の難しさゆえ、行政上の保護措置がなかなか受け辛い状況は昔も今もあまり変わりません。どれだけ言葉にしても、日常的な看護をする「家族の立場の意見」としては伝わりにくいものがあるようです。
彼は、この「統合失調症」にかかって十年以上だったそうです。
父上が私に語ってくれたこのようなお話は、まさに渦中に置かれた家族の、生の声であり叫びだと思います。もっともっと判ってほしい、理解する姿勢をみせてくれれば・・・家族と本人が明日に希望を持てる一筋の光明を導きたいという切実な思いを、これまでいろいろな場でこの父上は説かれてきたそうです。

「ねぇ岩田さん、私は今までいろんな場所で自分の息子やこの厄介な病気の話しをしてきたんですよ。もちろんそれは自分たちが家族であり、我が子を見捨てることが出来ないからこそしてきたことなんです。でもね、息子がこんなことになってしまったでしょ?だからって、これまでしてきたことを止めるつもりは無いんですよ。同じ社会の中に、私たちと同じ思いをしている患者さんやそのご家族が何十万人といるんです。その方々やこれからの社会に向けて、私たちの最悪の結果となったこの経験を伝え、何かを感じ、知ってもらうことこそ息子に報いることになると思うんです。息子の供養の為にも、語り続けたいんです。葬儀屋さんでしたら、もしかしたらこの先、私たちと同じ悲しい思いをする方とのご縁があるかもしれません。そうでなくとも、様々な方とお話しする機会が多いのが葬儀屋さんではありませんか?だから岩田さん、是非機会があれば、この病気のことや家族のこと、当事者は皆心で叫んでいるのだということを伝えていただけませんか?是非お願いします」
父上は淡々と私にこう話してくれました。私たちの務めは、命のお見送りのお手伝いです。お見送りとは言え、もしかしたら別の意味でその「命の叫び」には、ご遺族方よりももっともっと近い存在であるかもしれません。さらに見送るのは命であって、その魂や思いは受け継がれるものなんだ・・いつもそんな風に感じています。どんな遺志であれ、どんなご遺族の気持ちであれ、お一人の命の御昇天にはお金では決して買うことが出来ない須玉の置き土産、語り継がれる「思い」がそこには必ずあると思います。命のお見送り、すなわちこれは命を紡いでゆくことだと改めて痛感すると共に「大切なことを忘れるな」という自分への戒めであると感じました。設立五年目を迎えようとしていた平成二十三年初冬、須玉の置き土産を私も頂いたような気がする、父上のお話でした。
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